2014年 02月 03日
穴の空いたボール |
ある人が言いました。
子どもは、愛を受け取る器にたくさん穴があいてる状態で、
だからたくさんほしいし、抱っこしたりごはんたべさせてもらえたり、
自分の望む形じゃなきゃいやで、
大人になるって、その器の穴がどんどん埋まってというかうめていって
どんなものも愛として受け取れるようになることなんじゃないかと。。。
どんなその人も、私の愛する人だと、抱きしめられることなんじゃないかなとおもいます。
その人を愛するって、その人の全部をそのまま受け入れることなんだろうな。
誰かと、深く付き合うって、その人の全部をそのまま受け入れることなんだろうな。
それは、友だちでも、おなじ。
それでもいつも、
やっぱり自分の物差しでしか、愛を測れない未熟な自分がいて
子どもで、未熟で。
だから、誠実でないとか、無責任だとか、
そんな言葉を使い自分が何を欲しいと、主張してしまう。
相手に、自分の期待する何かを求めてしまい
それがない事を悲しんだり、怒ったりしてしまう
無我になりなさい
別の仏教の教えの本にそんなことが書いてありました。
自我を手放し、無我になりなさいと。
自己の確立とか、個性とか、主張とか、
そういう事が本当に正しいのかと、、、その本では言っています。
自我は、何かが欲しいと言う事、相手に期待すると言う事、
自分を主張すると言う事
それは執着いがい何も生まなくて
だから、無我になり、
頑な石のような自我を手放し、
水のように自在な存在に
空気のような自由なこころに。
一生懸命自分をみつめる中で培ってきた
私の頑さは、固い岩のような自我なのかも知れません。
そして
わたしの心は、穴の空いたボールなんだと思います。
大人になって、こぼれ落ちるあなを
自分のてで、自分自身の手で埋めていかないといけないとおもいます。
そんなことを今日は
かんがえていました。
子どもは、愛を受け取る器にたくさん穴があいてる状態で、
だからたくさんほしいし、抱っこしたりごはんたべさせてもらえたり、
自分の望む形じゃなきゃいやで、
大人になるって、その器の穴がどんどん埋まってというかうめていって
どんなものも愛として受け取れるようになることなんじゃないかと。。。
どんなその人も、私の愛する人だと、抱きしめられることなんじゃないかなとおもいます。
その人を愛するって、その人の全部をそのまま受け入れることなんだろうな。
誰かと、深く付き合うって、その人の全部をそのまま受け入れることなんだろうな。
それは、友だちでも、おなじ。
それでもいつも、
やっぱり自分の物差しでしか、愛を測れない未熟な自分がいて
子どもで、未熟で。
だから、誠実でないとか、無責任だとか、
そんな言葉を使い自分が何を欲しいと、主張してしまう。
相手に、自分の期待する何かを求めてしまい
それがない事を悲しんだり、怒ったりしてしまう
無我になりなさい
別の仏教の教えの本にそんなことが書いてありました。
自我を手放し、無我になりなさいと。
自己の確立とか、個性とか、主張とか、
そういう事が本当に正しいのかと、、、その本では言っています。
自我は、何かが欲しいと言う事、相手に期待すると言う事、
自分を主張すると言う事
それは執着いがい何も生まなくて
だから、無我になり、
頑な石のような自我を手放し、
水のように自在な存在に
空気のような自由なこころに。
一生懸命自分をみつめる中で培ってきた
私の頑さは、固い岩のような自我なのかも知れません。
そして
わたしの心は、穴の空いたボールなんだと思います。
大人になって、こぼれ落ちるあなを
自分のてで、自分自身の手で埋めていかないといけないとおもいます。
そんなことを今日は
かんがえていました。
by hal_kuzuya
| 2014-02-03 00:00
| 日常 ひとりごと